ただの相談役 気まぐれブログ
35年のローンを組んでも、建てて良かったユーリンの家。
ユーリン・ホームのガマはガマでもワガママのガマ。
以前
自費出版なさった2冊のご本を下さった方
野村史子女史は旧姓が「竹井氏」で
岡山の早島町の千光寺がご実家です。
ご本人にお尋ねしたことはありませんが
ご実家の「竹井氏」は もしかして
安土桃山時代の早島城主の
「竹井将監」と縁故があるのでは・・・?
『竹井将監五輪塔』は早島公園にありますし
公園は千光寺のお庭先のようなものです。
今日
このような話を書いたのは
竹井将監を討ち取ったのが
加藤清正だからなのです。
羽柴秀吉の『備中高松城の水攻め』の
前哨戦に『冠山城の戦い』がありました。
【早島町史】
竹井将監は大いに奮戦し、寄せ手をさんざんに討ち伏せた。加藤清正この有様を見て大いに怒り、竹井に渡り合って火の出るほど戦った。竹井は終日の戦に疲労しているため、勇力無双の加藤がいらちて打つ刀に真向を切り割られ、清正に首を取られた。(中略)秀吉公より「竹井将監儀無類の兵なり」とて、供養のため金子五拾両を賜り(中略)宮内の賀夜坊にて供養したという。
先日
司馬遼太郎さんの対談集を読んでいた時に
『賤ヶ岳の戦い』の話が出てきて
秀吉の戦勝宣伝のために
七本槍の武勇伝がつくられ
加藤清正などは七本槍を嫌っていた
というようなことが書かれていました。
加藤清正が七本槍の一人として武勇を喧伝され
討ち取った相手が「山路将監」だったからです。
「将監」つながりで「竹井将監」を思い出し
野村女史のことを思い浮べたのです。
「山路将監」には「正国」という名前も伝わっていますし
子孫は幕臣となっています。
「竹井将監」は名前も伝わらず「将監」という
通称しかわかっていません。
しかし
「竹井将監」の菩提寺が千光寺で
代々のご住職が「竹井」さんなのですから
深い縁があるのだと私は考えています。
「山路将監」の子孫には
明治大正時代の評論家・愛山がいます。
「山路愛山」は加藤清正を嫌ったといいますが
野村女史はどうなのでしょう?
一度尋ねてみたいものです。