ただの相談役 気まぐれブログ
ユーリン・ホームの建てる家は
断熱材を発泡ウレタン注入にして
長期優良住宅を当り前の標準にしています。
この間H氏から聞かれました。
「ガマさん・・・京都だって言ってましたよね。
京都はどちらです・・・?」
「アア~ワタシ・・・御所西です」
根っからの京都人なら
この答でピンとくるものが
あるのですよ。
岡山に来たばかりの頃
まだまだ
京都人臭かった頃
ある人が私に教えてくれたことがあります。
「あの人も京都人らしいですよ・・・」
私も同郷人の知り合いが欲しい頃で
さっそく尋ねました。
「アンタ・・・
京都らしいけれど・・・
どこの子や?」
「舞鶴です」
あんぐりしてしまい
京都人をバカにされているようで
話す気にもなれませんでした。
(舞鶴では京都人どころか
丹後人でしょうが・・・)
その頃の私にとって
京都人は区で言うと
上京・中京・下京まで・・・
大目に見ても左京・東山・・・
大甘におまけして右京・西京・・・
北は地続きで京都かなァ・・・。
山科・伏見に住む人は
京都人ではありませんでした。
私の幼い頃は上京・中京・下京などの洛中以外から
洛中に入ることを「京に行く」と言っていたものです。
京都市北区賀茂のお百姓の小母さんが
野菜をリヤカーに載せて売りに来たのですが
「京の人はよく買(こ)おてくれる」と言っていました。
京都市左京区大原の女性のことを
地域名をとって大原女と言います。
大原女は頭に薪を載せて
「京」まで売りに来るのです。
京都の嵯峨で生まれ(1955年)育ち
京都大学を出て
今は宇治に住んでいる
教授がおられます。
井上章一氏で本人いわく洛外人。
「京都ぎらい(朝日新書)」
という本も書いておられます。
その本に面白い話が載っていました。
(略)九代目の故・杉本秀太郎氏とも、合うことができた。
(略)「君、どこの子や」
たずねられた私は、こたえている。
「嵯峨からきました。釈迦堂と二尊院の、ちょうどあいだあたりです」
(略)「昔、あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」(略)
だが、そこに揶揄的なふくみのあることは、いやおうなく聞き取れた。嵯峨の子か、
田舎の子なんやなと、そう念をおす物言いであったことは、うたがえない。私は、はじめて
出合った洛中でくらす名家の当主から、いけずを言われたのである。(略)
(略)私は(略)梅棹(忠夫)氏にも問うてみた。
「先生も、嵯峨あたりのことは、田舎やと見下したはりましたか」(略)
西陣で生まれそだった梅棹氏は、こうこたえてくれた。
「そら、そうや。あのへんは言葉づかいがおかしかった。僕らが中学生ぐらいの時には、
まねをしてよう笑いおうたもんや。じかにからこうたりもしたな。杉本秀太郎が
そんなふうに言うのもそら、しゃあないで」
このごろは、結婚適齢期という考え方が、下火になってきた。(略)1980年代ごろまでは
適齢という観念が、世間的にも根強くゆきわたっていた。(略)たまたま、酒席で
知り合った女の人が、まわりの客に愚痴をこぼしだした。女も三十をこえるとおしまいだ、
いい縁談がこなくなったというのである。(略)
「とうとう、山科の男から話があったんや。もう、かんにんしてほしいわ」(略)
「山科の何があかんのですか」(略)
「そやかて、山科なんかいったら、東山が西のほうに見えてしまうやないの」
たしかに、そのとうりである。(略)山梨は東山のさらに奥、その南東に位置している。
あそこまでいけば、まちがいなく東山は西のほうに、その姿をあらわすだろう。
「東山が西のほうに見えてしまうやないの」という言い方はよく理解できます。
高校の時に友人が一家で山科に引っ越していったとき
京都から他府県に越していったような感覚を持ったものです。
と言っても
私は井上氏ほど
洛中・洛外ということを
意識したことはなかったと
思っています。
ただ
「京都のどこです?」と
尋ねられたら答えます。
「京都市上京区油小路中立売り下がる」
ではなくて
「御所西です」